京都五山の送り火

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京都の五山の送り火とは

精霊送り火である 京都五山の送り火

室町時代より伝わる送り火は、東山如意ケ嶽の「大文字」・金閣寺附近の大北山の「左大文字」・松ケ崎西山と東山の「妙法」・西賀茂船山の「船形」・嵯峨仙翁寺山の「鳥居形」があり、これが8月16日夜、相前後して点火されます。
盆の翌日に行なわれる仏教的行事であり(「報恩経」)ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意昧をもつものでありますが、通説によれば、この夜、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習があり、京都五山の送り火は、これが山に点火されてそこに留ったものであるといわれています。

京都五山の送り火 点火の起源

松ケ崎の妙法は麓の涌泉寺の寺伝によると、当寺が鎌倉末の徳治元年(1306)日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際、日像が西山に妙の字をかいて点火したものだといい、法は妙泉寺の末寺下鴨大妙寺二祖日良が東山にかいたのがはじまりといわれる。妙・法の2字が同時に作られたものでないことは、妙が法の左に画されていること(読みの順序が右読みでなければいけない)からでも推定されて、すくなくとも法は、時期として日良の時代(生歿年1590〜1660)近世初期。妙は大文字における空海説と同様、附会の説と考えられ、戦国末期か近世初頭というところである。

船形は麓の西方寺開祖慈覚大師円仁が、承和年間、唐留学の帰路暴風雨にあい、南無阿弥陀仏と名号を唱えたので、無事帰朝できたことから、俗にこの船形は精霊船といわれており、その船形万灯籠をはじめたと伝えられる。船の形をとった動機としてこの円仁の故事が想起されたとしても、創始の時期を1100年以前に遡ることは困難である。
鳥居形の場合、弘法大師が石仏千体をきざんで、その開眼供養を営んだとき、点火されたと云うが、むしろ愛宕神社との関係を考えるべきであろう。

左大文字も計画だけは江戸初期にあったらしいが、中期以降にはじめられたものであろうと伝えられる。京都五山送り火の起源については明らかでないが、地元の人々の信仰をもとにはじめられ受け継がれてきたからこそ、それが直ちに記録にもとどめられなかったのであろうと考えられます。

中世末戦国時代に盛んに行われていた大燈呂の風習を、当時の公卿山科言継の日記「言継卿記」によれば、永禄10年(1567)に、京都の町で2間4方の大燈呂がつくられ、前代未聞人目を驚かしたといい、元亀2年(1571)には、そのような大燈呂が73もつくられ、町々でその趣好が競われたという。大燈呂は精霊送り火の―種である万燈会の余興化したものであり、おそらくそこに示された人々の信仰と意欲が、大規模な精霊送り火である京都五山送り火をつくり出すエネルギー源となったものと考えられます。

会員の方

京都五山の送り火に見守られて

精霊送り火である 京都五山の送り火
室町時代より伝わる送り火は、東山如意ケ嶽の「大文字」・金閣寺附近の大北山の「左大文字」・松ケ崎西山と東山の「妙法」・西賀茂船山の「船形」・嵯峨仙翁寺山の「鳥居形」があり、これが8月16日夜、相前後して点火されます。
盆の翌日に行なわれる仏教的行事であり(「報恩経」)ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意昧をもつものでありますが、通説によれば、この夜、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習があり、京都五山の送り火は、これが山に点火されてそこに留ったものであるといわれています。

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